Tuesday, July 22, 2014

Curfew(邦題:未定、日本公開日:未定 )


Curfew(邦題:未定)』は放映時間19 分の短編映画である。



2012年度、第85回アカデミー賞でBest Live Action Short Film(アカデミー短編映画賞)に輝いた作品だ。

アカデミー賞を受賞する前にも既に40個以上の賞を総ナメしていたが、1年以上経った今もなお、数々の賞を受賞し続けている。



この映画は、Shawn Christensen(ショーン・クリステンセン)自らが監督、脚本、そして主人公Richie(リッチー)として主演まで担当している。


Cerfewは直訳すると、外出禁止令、門限などを意味する。
どういう意図をもってこの題にしたのかは、分からないが、独特な雰囲気の映画だ。

それは映画の始まり方からして明らかだ。



最初のシーン。
礼拝堂で流れるような音楽が流れる中、電話が鳴り響いているところから始まる。 血まみれの状態でお風呂につかっている男が受話器をとる。

男性は自ら命を絶とうとしていた。
そこに、疎遠となっていた男性の妹から、非常に大事な急用ができたために、11歳の娘を数時間だけ預かって欲しいという電話がかかってきたのだ。

男性は少女を預かることを承諾し、男性と少女は数時間ともに時間を過ごすこととなる。

この数時間が彼自身を変え、少女を変え、そして彼と疎遠だった妹との関係性を修復させるきっかけとなる。



ショーンがある9歳の少女と出会った時に、この作品のインスピレーションを受けたのだと彼はインタビューで語っている。その少女と時間を過ごす中で、いかに少女が賢く、様々なことを吸収し、エネルギッシュで、大人が思っているより少女達は遥かに大人であることを実感したそうだ。その一方、大人達は歳を重ねるにつれて、エネルギーと精気を失い、へとへとに疲れている。

こういったことをストーリーに盛り込みたいと考えたらしい。

たった20分間の中で、起承転結があり、ヒューマンドラマもあり、人の心の中の変化も垣間見ることができ、印象的で可愛らしいダンスシーンもあり、ショートと思えないほどの見応えがある。



そして何より、少女Sophia (ソフィア)役のFatima Ptacek(ファティマ・プタセック)がとても愛らしくてたまらない。この子はこの先も要注目だ。
 
リッチーの妹であり、少女の母親であるMaggie (マギー)役はKim Allen(キム・アレン)が演じている。



実はこのショート、ものすごい反響があったことを受けて、93分のロングバージョン『Before I Disappear(邦題:未定)』が今年2014年の3月にリリースになっている。まだ米国でも劇場では上映されていないが、評価は比較的に高いようなので、今後の動向もチェックしていきたい。

ロングバーションでもリッチー役はショーンが、ソフィア役はファティマが演じているが、マギー役はキム・アレンに変わって、2004年の映画版『Phantom of the Opera(邦題:オペラ座の怪人)』のChristine(クリスティーヌ)役も演じたEmmy Rossum(エミー・ロッサム)が演じている。



ロングバージョンを観るのが非常に楽しみである。




Curfew』ホームページ: http://curfewfilm.com/
英語版予告編: http://curfewfilm.com/trailer/

Wednesday, July 16, 2014

Lost In Translation(邦題:ロスト・イン・トランスレーション )



舞台は東京。

倦怠期を迎えてしまっているハリウッド・スターのBob Harris(ボブ・ハリス)は、サントリーのウィスキー響きのCM撮影の為に来日している。街の中で人々が話していることを理解できないことは勿論のこと、日本人の通訳がほとんど正確な通訳ができていない為、撮影中でさえも、日本人との意思疎通がうまく図れていない。訳される間にいくつかの伝わっているべきポイントが失われてしまい、話した側が意図したようには正確に伝わってはいない。まさにロスト・イン・トランスレーション。意思疎通が図れないことや、大きく異なるカルチャーの違いから、ボブは、自分だけが世の中からぽっかり浮いてしまっているような気持ちになり、日本にいることに対して居心地の悪さを感じている。



一方、大学を卒業したばかりのCharlotte(シャーロット)は、旦那さんの仕事に付き添って日本に一緒に来たものの、毎日ホテルに置いてきぼりにされ、孤独を感じている。



彼らは、互いに、日本という未知の土地で迷い、夫婦間の関係にも迷い、自分自身をも見失い、色々なものから“ロスト”状態になっている。

そんな2人が同じホテル(新宿のパーク・ハイアット)に宿泊していることから出会い、一緒に東京の街を冒険する話ある。アメリカと日本のカルチャー、そして世代間のジェネレーションギャップを感じながらも恋愛未満、友情以上の関係を築き上げていく。



Lost In Translation(邦題:ロスト・イン・トランスレーション)』は、2003年のダークホース映画と言われた。予算も400万円程度と少なめであり、撮影日数もわずか27日間であったが、1 2千万円以上の興行収入をおさめ、2004年のアカデミー賞では、主要4部門の作品賞、監督賞、主演男優賞、オリジナル脚本賞にノミネートされ、アカデミー脚本賞を受賞した。



監督および脚本を担当したSofia Coppola(ソフィア・コッポラ)は本作の成功により、一躍ハリウッドでも注目される新鋭若手監督となった。

コッポラ自身が若いころ何度か日本を訪れ、当時旦那さんだったSpike Jonze (スパイク・ジョーンズ)と一緒にも日本に滞在しており、この脚本は、その体験をもとにした半自伝的作品と告白している。なので、映画の中でのスカーレット・ヨハンソンの旦那さん役は、スパイク・ジョーンズがモデルとなっていると言われている。



脚本を書いている時から、Bill Murray(ビル・マーレー)が念頭にあったというコッポラは、半年ほどで脚本を書き終えると、彼に何度もアプローチをし、出演を懇願する。半年から一年をかけて根気強くお願いをした彼女の熱意に負け、ビル・マーレーは彼女の書いた脚本であるこの映画に出演することを承諾したそうだ。承諾したにも関わらず、契約は結ばなかったため、ビルが日本に来たということを確認するまでは安心できなかったという。



当時17歳だったScarlett Johansson(スカーレット・ヨハンソン)もコッポラが自ら起用を決めた。



本映画は、言語の壁とそれによる心理的距離だけでなく、夫婦間、男女間、世代間、友人間などの現代社会多くの人間関係における相互理解の難しさをテーマとしている。その孤独感を増幅する演出として、意図的に、 日本語のセリフに字幕がつけられていない。

そう、私たちはこの映画を見ていると、全て理解できるが、日本語を分からない人からすると、本当に観ているだけでも、疎外感、孤独感を感じるのだろう。




コッポラは東京のネオンライトに魅了され、特にパーク・ハイアット東京は世界の中でも最も好きな場所の一つであったそうだ。彼女はこの映画を“東京へのバレンタイン”と言い、大好きな東京に捧げている。

アメリカのクルーが日本でビジュアル(映像)を撮影する時に毎回思うこと。それは、「アメリカ人が東京を撮ると、こういう風に撮るんだ」、「アメリカ人の目/レンズから見えている東京は、こういう街なんだ」ということ。東京は東京でも、私自身が見ている東京とは何かが違う。日本ではずっと住んでいた東京がなんだか遠く感じる。




The Black Eyed Peas(ブラック・アイド・ピーズ)のJust Can’t Get Enough(ジャスト・キャント・ゲット・イナフ)の映像を観たときも、同じことを思った。ちなみに、この曲と映像は、ロスト・イン・トランスレーションの音楽バージョンだ、と言われている。



この映画を観るとちょっとだけ日本・東京が恋しくなるのは私だけじゃないはず。



Tuesday, July 8, 2014

A Time To Kill(邦題:評決のとき)


A Time to Kill(邦題:評決のとき)』は1996年に公開されたアメリカの映画。



原作はJohn Grisham(ジョン・グリシャム)によって1989年に書かれている。本書は彼の処女作だった為、内容も内容なだけに、出版化に当たっては多くの出版社に拒否され、ようやく出版した会社も5000冊のコピーを印刷したのみであった。しかしながら、『The Firm(邦題:法律事務所)』、『The Pelican Brief(邦題:ペリカン文書)』、『The Client(邦題:依頼人)』が次々とベストセラーになると、次第に多くの出版社が本作『A Time to Kill(邦題:評決のとき)』の出版化に興味を示し、ペーパーバック版・ハードカバー版が相次いで出版されるに至り、今や誰もが知る名著書となっている。





原作著書が関心を持たれるのが遅かったため、本映画も1996年に公開と、ジョン・グリシャムの本を元に作られた他の映画よりも映画化が出遅れた。

監督には原作者自身の指名によって映画版『The Client (1994)(邦題:依頼人)』のJoel Schumacher(ジョエル・シュマッカー)が再登板し、脚本も同作のAkiva Goldsman(アキヴァ・ゴールズマン)が担当。アキヴァはこの2つの作品を機に、キャリアが花開いている。



この作品の知名度を考えるとびっくりする事実だが、ほとんどこれといったアワードは受賞していない。アカデミー賞にもノミネートはされなかったものの、本フィルムは今年2014年のアカデミー賞で主演男優賞を受賞したMatthew McConaughey(マシュー・マコノヒー)の出世作となった作品である。Samuel L. Jackson(サミュエル・L・ジャクソン)の本フィルムでの演技も評価され、ゴールデングローブ賞の助演男優賞にノミネートされた。



キャストも非常に豪華で、その後主役級となる役者ばかりが勢揃いしている。

American Beauty(邦題:アメリカン・ビューティー)』や『The Usual Suspects(邦題:ユージュアル・サスペクツ)』のKevin Spacey(ケビン・スペイシー)、『Gravity(邦題:ゼロ・グラビティ)』のSandra Bullock(サンドラ・ブロック)、『Double Jeopardy(邦題:ダブル・ジョパディー)』など数多くのフィルムに登場し、最近でも『Divergent(邦題:ダイバージェント)』に出演したAshley Judd(アシュレイ・ジャッド)が脇役なのだから今考えるとどれだけの役者揃いだったことか。



その上、Donald  Sutherland(ドナルド・サザーランド)と『2424 -TWENTY FOUR-)』のKiefer Sutherland (キーファー・サザーランド)親子も出演している。



さて、ストーリーは既に本作を観て知っている方も多いと思うが、アメリカでの人種差別を題材とし、新米弁護士が法廷での争いを繰り広げる、いわゆる法廷映画である。

舞台はアメリカ南部のミシシッピ州。
物語は、黒人の少女タニヤがお遣いの帰り道に、白人の青年2人組に暴行され、レイプされ、放尿され、木から吊り下げられて、その後近くの川に置き去りにされたところから始まる。

少女は、命はなんとか取り留めるものの、ひどい乱暴を受けたせいで、たった10歳にして子供を授かることができない身体となってしまう。



この少女の父親カール・リーは、この出来事を顔馴染みの白人弁護士ジェイクに相談する。この時の会話からカールは黒人を強姦しても有罪にはなる可能性は極めて低いことを知る。ジェイクはカールから漂うただならぬ雰囲気を感じながらも、話終えた後に彼を帰してしまう。

カールは法で裁けないなら自ら復讐をするしかないと心に決め、ライフル銃を手にし、地方裁判所に乗り込み、娘を強姦した青年を2人とも射殺、横にいた白人警官のことも誤って撃ってしまう。結果、2人組は死亡、警官は片足を失ってしまう。

カールはすぐに捕まり、この事件を知ったジェイクは彼の弁護をタダ同然で引き受けることにする。

事件は国中のメディアで取り上げられ、白人至上主義団体のKKK(クー・クラックス・クラン)は再びこのエリアを牛耳るようになっていく。

KKKはジェイクの家族や彼の身近な人達にも、脅かし程度では済まないほどの酷い仕打ちをし、ジェイクの周りは彼にこの事件からおりるように懇願するようになる。

しかし、正義を追求したいという正義感の強さに加え、カール一家への同情と、自らも同じ歳くらいの娘がいるジェイクは、娘に同じことが起こったら自分でも同じこと(復讐)をしたかもしれない、カールが尋常じゃない様子でジェイクを訪ねてきた時も彼を帰してしまったのは、もしかすると心のどこかで彼に復讐をして欲しいと思っていたのではないか、と考え、カールの弁護の続行を心に誓う。



ジェイクは裁判でカールを心神喪失による無罪を主張したが、やり手の検事は巧みな誘導尋問でカール本人の口から彼が明確な意志を持って2人の青年を射殺した事を証言させる。

しかし、カールのせいで左足を切断した警官のルーニーが証言台に上った際に、カールの犯行動機を支持して無罪だと叫び、裁判所は一時騒然となる。
この裁判の緊張感はますます高くなり、KKKの残虐な行為も酷さを増して行く。

この事件の陪審員はもちろん、ほとんど白人であるが、裁判の話し合いのためカールに面会に訪れるとカール自身もまたあんたは所詮白人だ、と言い放たれる



陪審員に対し、最終弁論でジェイクは、「目を閉じてある話を聞いて欲しい」と求める。彼は実際に10歳のタニヤに起こったことを彼女の名前などは出さずに、詳細に話す。陪審員たちの目からは涙が流れてくる。話の最後で、ジェイクは言う、「では、この少女が白人であったらどうでしょうか」と。

裁判の結果、カールは無罪となる。





最終弁論の結果、有罪に傾いていた陪審員が無罪の判決の下す。...ということは、黒人の少女がレイプされて暴行されても報復殺人は許さない。しかし、少女が白人であったならば報復殺人は許容する、ということだ。


この映画は決して、差別は悪であるとか差別をなくそうというメッセージを発しているのではなく、私たちは今も差別をしてしまっている、という現実・事実を突きつけている作品である。

どんなに差別は薄れていて、社会的にも人種差別はいけないことだと人種差別に対して繊細になっていても、人種差別は依然として深く根付いている。

1996年から約20年が経過した今は、果たしてどうだろうか...。人種差別は存在ない、自分は人種差別をしていないと言いきれるだろうか...。




201310月には、弁護士のジェイクが再び登場する、『A Time to Kill(邦題:評決のとき)』の続編となる小説『Sycamore Row(邦題:未定)』がアメリカで発売された。映画化されるのかどうか、された場合はマシュー・マコノヒーが再びベテラン弁護士になっているであろうジェイクを演じるのか、今から注目だ。



法廷映画が好きな方は、こちらのポストもどうぞ⇒『Dead Man Walking (邦題:デットマン・ウォーキング)』。